むしょくとうめいのらくがき

某オタクサークル元妄言兼支離滅裂な思考・発言担当による支離滅裂な思考・発言

「野球漫画」と呼ばれるものを見て思うこと

 にゃんぱすー。

 

 みんなのおぼえている名勝負ってなんなのん?

 

 ※この文章には一部「スポーツ」及び「スポーツもの作品」に対する批判的表現が含まれます。すべて自身の思考以外に論拠のない独り言であり個人の感想ですので、不快に思われたら申し訳ありません。

 

 

【定期】すまんな。

 

 しかし実際気になるところです。あなたの記憶に残っている、スポーツで感動した・熱くなった名場面とか選手はいますか?最近NHKで2001近鉄の北川とか、2003星野阪神とか、高校野球でも松坂平石上重がやりあってたPL対横浜の試合なんかが特集されていました。スポナビの一球速報アプリも落合中日のプレイバックとかやっていましたし、現在やきう含め何もスポーツが見られない状況においては、粋な試みだと思います。

 そしてその中でアナウンサーや解説者の方も仰っていたかと思いますが、やはりスポーツには人の心を動かす「何か」があるな、と感じました。やっている方だけじゃなくて、それを観ているだけのこちらが、なぜか熱くなって、切なくなって、感動してしまう。やがてそれは悲しみの中で、生きる希望になったりもするわけです。僕なら何かな……やはり2009夏の甲子園の決勝戦日本文理高校の9回表の攻撃でしょうか。

 あとは2012の金本引退試合。2013のセリーグCS、9回2死からの桧山の2ラン。2014セリーグCSファイナルでの阪神4連勝。2017の鳥谷2000本。2019交流戦での原口のサヨナラ打。2019シーズン最終盤の滑り込み3位。

 うーんこの依怙贔屓。

 まあ贔屓球団やししゃーない。

 

 しかしだからといって、スポーツに「そういう(上記みたいな)ものって求めて良いんだろうか」と問うてしまう自分もいるのです。これってひねくれてるんでしょうか?

 上記では野球に限って取り上げていますが、他のスポーツでも「高度な技術へのあこがれ」だけではない「特別な思い」―困難の克服、大切な人への感謝、仲間との絆・団結、指導者への恩、ライバルとの切磋琢磨、喜びや涙など、心へ訴えるものを多く感じてきたことは確かです。また、そういうスポーツのくれる熱く美しいものを描いた漫画やドラマ、アニメ等……いわゆる「スポーツもの」「スポ根」の作品も好きなものは沢山あります。

 ですが「それゆえスポーツは美しい」みたいなものを改めて一般論として提示されるのは、どうも違和感を覚えるのです。

 正確に言うと、そういうスポーツに起因する先述したような「特別な思い」を表象した作品が、最近になって苦手になりました。フィクション・ノンフィクションを問わずですが、そういうスポーツの「美しい部分」を切り取って映像作品化・物語化し、これゆえスポーツは感動をくれる!ということを謳うものをみると、どうもスポーツの見方・楽しみ方に偏りがあるような気がするし、どうも必要以上の「美化」をされすぎているように感じる。

 僕自身、野球というスポーツが好きなだけに、その野球が「偏った」見方をされてしまうのがとても悲しいのです。

 

 

Ⅰ.「勝負」という言葉への違和感 ―「確率とリスク」という野球の魅力

 

 全球ど真ん中でオールストレートの力勝負、確かにロマンです。そういう対決は見ていてワクワクします。それこそ阪神藤川球児投手をずっとTVで見てきて、その姿に憧れてきた一人です。その球児さんが、今でも阪神の「守護神」として君臨し続けているというのは、ただただ「すごいな……」ということしかできません。

 で、話を戻します。

 それでは変化球は「勝負」ではないのでしょうか?

 時々、物語の登場人物が「変化球で”逃げ”る」という表現を使います(現実の中継で耳にすることもあるけれど)。まあ、物理的に打者の身体から遠くなるとか、スイングの軌道から離れていくとか、そういうことであればわかりますが……

 漫画の主人公格の決め球がみんな「ストレート」なのってどうして?

「スライダー」や「フォーク」を選ばなかったのはどうして?

 コーナーへの投げ分けと変化球を得意とする軟投派を、物語の主要人物に据えないのはどうして?

1.勝算も目的もない「真っすぐ一本」は時間と体力の無駄

 現実のプロ野球にも藤川投手と同じく、ストレートを武器としていて同球種主体のピッチングを展開するピッチャーは多くいます。ですが、プロのピッチャーがピンチで相手の主砲を迎え「ここで変化球は”逃げ”なので、真ん中のストレートだけで勝負します!」と言うでしょうか?当事者ではないから何とも言えませんが、そういう選手がプロで長く現役をやれる、とは誰も思わないでしょう。藤川選手然り、プロの誰もがその場面場面で勝算や目的があって、最終的にチームのプラスになるべく最良の選択をしているはずです。

「相手の苦手な○○を投げる」「得意な△△で裏をかく」

「自分はあの球種はコントロールできない、このコースでは腕が振れない」

「この球種・コースならいい球がいく」

本塁打を浴びても試合に響かない点差」「1点もやれない点差」

「四球や安打ならいい」「外野フライも内野ゴロも避けたい」

「捕手・投手の長年の勘」

 ……とか。まあ変わり種としては「調整」とか「自分や味方の練習とか自分・味方・相手のクセを炙り出す」とかもあるけれど、確実に言えることはひとつです。

 相応の勝算や目的があるから「真っすぐ一本」「徹底して変化球」「打たれても真ん中」「歩かせてもいいから際どく」となってくるわけです。

「決め球=ストレート」でも、相応の根拠がなかったらそれはただの「投げ槍」。

 僕に言わせればそれこそ「試合から逃げている」と言わざるを得ません。

 最後でフォーク連投やめて真ん中真っすぐ打たれてサヨナラされた左ピッチャー!お前の事やぞ!!!。

2.「試合に」「チームとして」勝つために —敬遠策について

 似たような感覚で「敬遠=逃げ」の風潮もよくないですね。もっともプレーしていて敬遠をされる側としては「汚ぇ!!」と憤る気持ちはあるでしょう。特に当事者となる打者としては「前のバッターより、自分との勝負の方が勝算がある」と判断されてしまうわけですから。

 それでも、1点リードした9回2死2・3塁で、今日本塁打含む3安打の4番バッターを迎えた。一方で次打者の5番は今日ノーヒットで、投手との相性も通算10-1とよくない。こういう時に「あえて4番バッターと勝負」となるでしょうか?……余程チームとして「この打者を抑えないといけない!」というのであればわかりますが、基本的にここで勝負を避けても「試合に勝つために確率が高い方を選んでいる」と解釈されるのが妥当なはずです。

 かつて映像作品で「ピンチで相手の4番を迎えたけど(打たれそうなので)敬遠したい選手(またはベンチ)」に対し「ここで逃げて良いのかと諭す強気な選手(またはベンチ)」という構図を見た記憶があります。その時は何とも思わなかったけれど、改めて振り返ってみると「野球っていうスポーツの面白さ」ではないんじゃないか、と思うんです。

 もっとも個人的なことを言うと「敬遠」そのものに関しては「打たれるフラグ」みたいな決めつけがあるので、あまりおすすめはしません。まあ「決めつけ」「イメージ」みたいなのも、ゲームにおいては(強弱は別にして)根拠とはなり得るとは思うけれど。

3.ゲーム中の色々な「駆け引き」をもっと深く、楽しく

 野球に限った話ではないかもしれませんが、スポーツにおいてあえて「危険の高い方を選ぶ美学」への賛美、ならびにフィクションにおける同様の表現を見ることがあります。

 ゲーム中「失敗・敗北の危険をゼロにする」手段というのはありません。100%勝てるカードはありません。ですが「複数考えられる手段のうち、100に限りなく近いカードを選ぶ」ことはできるはずなんです。さらに、それを対戦相手の動向もうかがいながら、先を読み、時にはあえて裏をかいてリスクを冒すのも必要かもしれません。

 野球なら、配球・守備シフト・攻撃の作戦・選手起用などを、1球ごとに考えて実行できる。そこで「バッテリーと打者」「監督対監督」などによる”駆け引き”がある。

 悲しいことに、こういう楽しみに気づくことが出来たのは選手生活を終えた後です。でも、離れて気づくこともある。何より精神論・根性論的なことでなく、もっと「野球というスポーツの楽しさ・奥深さ」が色んな人に広い視点で伝わっていったらいいな、ということを、一人の野球ファンとして願っています。

 

 

Ⅱ.趣味の「草野球」「野球観戦」になって感じた「野球は楽しい」

 

 野球は楽しい、ということを引退後の草野球で思い出す―これも『野球部あるある』に書いてあったことです。僕自身、今まさに、身に染みてそう感じています。最初は「野球部に入らない=もう野球を諦める」ことだと思っていましたが、部活から離れると時間ができますから、その分色々なことを考えることができます。例えばTVやyoutubeを見ると、あるいは球場に足を運ぶと、知らなかった「野球」の姿が見えてくるのです。また、バッティングやピッチングでも「現役の時は必死で考える暇もなかったけど、こういう理論・やり方でやればよかったのか」ということを考える余裕が出てきました。また部活では守備位置が決められているけど、それも関係ないですからね。

 僕は野球に限らず、どのスポーツもまずは「楽しめるものであってほしい」と思っています。逆を言えば、苦しく辛いだけのスポーツには正直、まったく魅力を感じません。

1.野球漫画の「感動の青春群像劇化」をどう思う?

 僕のイメージで語って申し訳ないですが、「野球漫画」でよくある設定として「廃部寸前の野球部→人数集める→弱小だけど甲子園だ」みたいなのは多いんじゃないでしょうか。そうでなくても「意識を変えて甲子園を目指す」という展開は必ずあって、そのうち「こんなぬるい野球でいいのか」という転機から場合次第で対立も生まれてくる。それでも最終的には「こいつらと甲子園に行きたいんだ!」という絆を表象し、読者の感動を煽る―感動の青春群像劇として、学生スポーツ、特に高校野球はうってつけの題材になるのかもしれません。

 高校野球をする球児は人間としても多感な時期にありますから、彼らの心の移り変わり、特別な思いの芽生え(恋愛・嫉妬・劣等感・反抗心……等)を「学生の部活動」から物語にする、ということは有効な手段かと思います。もちろんそういう作品を批判したりすることはしませんし、それらの作品が世間に広く「名作」と呼ばれるという例もあるでしょう(すみませんパッと思いつきません)。だけど、そういう作風が「野球の魅力」を伝えているとは、申し訳ないですが全く思いません。

 例えば漫画作品で上記のような「青春群像劇」を高校野球を舞台に描いていたとしても、それを「野球漫画」に分類することには抵抗を感じます。チームメイトやライバルとの絆・友情や、大切な人への感謝・愛情などで読者の涙を誘っても、「それで、野球はどこいった?」となるのです。聞いてるか、「試合終盤の回想シーン」と「それによって試合終盤になるほどテンポが遅くなる」とかいう現象お前らの事やぞ。

 野球が面白くなるのは勿論試合終盤なので、そこで采配や配球・狙い球などの読み合いをするのが選手・ベンチの腕の見せ所、またそれを描くのが作者の腕の見せ所なはずです。それをせずに、選手の脳裏に過去が浮かんできて、気迫だけでなんとかしようとする、というのは何か違う気がするのです。

 また、練習風景や日常生活について。グラウンドで基礎・実戦といった風景が細かく描かれているのはとてもよいですね。時にはバッテリーだけで作戦会議とか、ライバルとちょっとメールして挨拶とかも自然体でいいでしょう。ただ「気になるクラスメイトが応援に来る」とかになってくると、学校生活の少しいい思い出にはなっても「野球の魅力」を伝えるものではなくなってきてしまう。 いずれの場面でも、物語を通して作者が伝えるべき「野球の魅力」から、どうか外れないでほしいな、という願いがあります。

2.「キツい練習に耐えた思い」や「夏への覚悟」は野球のすべてじゃない

 そのままキャッチボールで終わって欲しかったよ、ヨミちゃん。

 確かに上記のようなワードは、球児にとっての財産となり得るものでしょう。また、そのような特別な思い・情熱を背負ってプレーする球児の姿に、魅せられてきたファンの方も多いでしょう。

 ですが、上記のような言葉を使い、野球を含むスポーツにおいて生じる困難を「美談」で片づけていいのでしょうか。

 実力不足及びそれによる他選手・指導者・保護者との軋轢から、選手生活が「悪い思い出」として記憶されている身だからこんなことを言うのだ―そう切り捨てられることに異存はありません。しかし「厳しい練習」をはき違えた不合理的な練習方法や、指導における精神論・根性論の横行。炎天下の公式戦における投手の連投・酷使……。精神的にも、もしかしたら肉体的にも大きなダメージを残す危険があるにも関わらず、残念ながらそれらのことを「美徳・美談」で片づけようとする風潮は根強く残っています。

 創作作品やドキュメンタリーでも、間違った「美徳・美談」を煽るものが多いように感じるのです。故障したら大人しくプレーを止めるとか、未然に防ぐべく適切な投球数でマウンドを降りるとか、どうにもそういう「安全で楽しいプレー」を批難する作品が多い。

 また、野球に限らずスポーツを題材とした作品における「学生のひたむきな(悪く言えば盲目的な・何かに洗脳された)姿」を描く傾向があるように感じます。あれはたまたまそうなっているだけなのでしょうか。作品としての魅力・面白さを追求するうえで、そういう設定になったのだと信じていますが……。

 いずれにしても。

 一歩間違えれば只の「苦行」になりかねない世界だけが、スポーツの全てではない。

 三年間やり抜いたとしても、イップスになって、二度とボールもバットも握れなくなって、野球場へ足を運ぶことも苦痛になった―もしこうなったなら、何の意味もないと僕は思います。

3.「部活」「クラブ」から離れても野球人でいる方法

 中学限りでロクでもない思い出を残して選手を諦めた僕でも、未だに「野球がすきです」とはっきり言うことができます。また選手を諦めたことで、かえって野球に関して全く見えていなかったことや、知らなかったことに気づきました。

 

 TV観戦、野球場での観戦、休日にバッティングセンターへ行って遊ぶ(娯楽としてのバッティング)、本やyoutube等による野球関連の知識・理論の習得、そして草野球……。チームでできなかったら、ただのキャッチボールとか素振りとか、環境次第では壁当てとか。なんだってできるじゃないですか。確かに部活の厳しい環境下でしか得られないものはあるけれど、厳しい環境下では得られないものもあるんです。

 選手生活時代、僕は本当はピッチャーとして試合で登板することを夢見ていました。もちろん「チームの事を考えろ」と一蹴されます。でも、休日の友人同士の遊びだったらどうですか?言ってしまえば試合でなくても、捕手を座らせて一定の間隔を開け、スライダー、ツーシーム……等を投げる「ピッチャーの真似事」ができれば僕はそれでいいです。時々打者がいたり、守備がいたりするときはすごく楽しいですね。

「失敗したらどうしよう」または「どうしよう失敗してしまった」という思考も、今では「失敗したのはフォームがこうなっていたからだ」「この球種は読まれていたかもしれない」「なら次はこうしてみよう」というものに変わり、またそういう追求をすることも楽しさになっています。いちいち考える余裕があるって、めっちゃ楽しくないですか?

 部活やチームにいなくても「野球人」でいる方法はあるんです。

 

 

Ⅲ.むすびにかえて&あとがきのようなもの

 

 少し前に「おすすめの野球漫画やアニメはあるか」と言われたので、以下の作品を取り上げたいと思います。

1.ONE OUTS-ワンナウツー(甲斐谷忍/集英社

www.ntv.co.jp

 ※アニメ版……2008年10月~2009年3月放送

 制作・著作:ONE OUTS製作委員会

 放送:日本テレビほか

 どのスポーツであれ、試合=ゲームでは勝敗、白黒がはっきりとつきます。

 そして「プロ」は特に、内容はどうあれ「勝つ」ことが重要視される。

 勝ったら天国、負ければ地獄……という世界で「勝ち」「負け」以外の特別な感情・要素が必要以上に重要視され美化されることには、どうも違和感を持っていました。かつ、勝敗のかかったゲームでは身体能力だけでなく、頭脳的・心理的駆け引きだって重要なことです。野球漫画の中では斬新な描かれ方でめちゃくちゃハマりましたが、一方ではむしろ「こうでなくっちゃな」とも思いました。

2.私を球場に連れてって(うみのとも・スーパーまさら/芳文社

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1&2巻

tsuru-otaku.hatenablog.jp

 大学時代サークルのブログで紹介した漫画作品です。↑のよくわかんない妄言の末尾で紹介させていただきましたので、お急ぎの方はその部分まですっ飛ばしていただけるとありがたいです。

 野球場や野球観戦は、実はとっても気楽で、身近に捉えていいはずのものなんです。何も自ら敷居を高めることはありません。プレーから離れたという人も休日の散歩感覚で野球場へ行くと、見方が変わるかもしれませんよ。

 のんびりご飯食べて、おしゃべりしながら見る。これはそんな当たり前の「野球の楽しみ方・魅力」を伝えてくれる、れっきとした野球漫画だと僕は思いました。

 

 長くなってすまんな………….。

 でも本当に野球は楽しいんです。

 あなたにピッタリな楽しみ方を見つけてくださいね。

 またお会いしましょう。