蜂に刺された。
植込みの剪定を指示され、いつものように憤りに身を任せてバッサ、バッサと枝切り鋏を振るっている時だった。どうせすぐ伸びるのならスポーツ刈りくらいにしてしまえ、と調子に乗って、奥まで手を入れすぎたのが災いしただろうか。軍手越しに鋭い衝撃が走ったので「枝の棘かな」と思って目を落とすと、親指の一回りくらい小さな楕円の黒いシルエットが止まっているではないか。
かわいいな、と見とれる位の余裕があればよかったが、瞬間には既に右手を動かすことができなくなっていた。状況を理解するより先に、鋏と刺された側の軍手をその場に脱ぎ落し、事務所へ走り出していた。
結局その日は勤務終了の1時間前にほぼ命じられる形で早退したが、親指を中心に傷がひりつくような痛みと、ずしっとした筋肉痛のような鈍さが残り、しばらくは何も掴むことができなかった。翌日は幸いにも休みだったが、右手が動かせるようになった代わりに三十七度五分の発熱をし、寝るだけで一日を終えた。平熱に戻っても、今度は蚋にでも噛まれたような違和感が広がり、和らげる為に保冷剤が手放せなかった。
痒み止めの為にキンカンを塗っていて思い出した。そういえば蜂の場合は「喰われる」とは言っていない。
蚊に自分の血を献上することをどう言うか、という問題(?)について、同じパートさんや短期のアルバイトさんと盛り上がったのは、蚊ではなく蜂に攻撃される二、三日前のことであったろうか。
もともと祖父母が「かにくわれた」をよく使っていたせいか、それは「刺される」派の僕にもしっくり来た。どちら派でもあった、と言うべきだろうか。その数年後には何かの本で、雌の蚊は養分として血液を吸っている、という事実(なのか?)を知ったので、余計に「喰らう」という文字はよく当てはまるように思えた。もっともその本を読むまでは「かにくわれた」で一つの動詞だと思い込んでいたのだが、まさか「か(蚊)」という名詞に「喰われた」という過去受身形だとは……。
ともあれ、蚊に「噛まれる(咬まれる?)」という使い方を知るのは、大学の周辺地域で蚋のことを「谷村虫」と呼ぶのを聞いてからになる。つまりブヨなのだけれど、あの一帯には比較的多いようだ。ブヨは皮膚を噛み切って血を吸うから、なるほど「刺された」は違う、というのはわかる。
ううむ、これでは蚊ではなく蚋の問題になってしまったな。何しろ受身側の表現ではなくて、血を吸う側の方法がそもそも違うのだ。いや、しかし大学保健センターの注意喚起にも「ブヨに刺されたら」という題で対処法を書いていた気がする。
ブヨ、お前……どっちなのだ。まあ刺すのも噛むのも、できればやめてほしいのだが。もっと穏便に、話し合い等で解決していただきたい。吸血鬼だって現代に適応して、通販で血液を購入しているじゃないか*1。
ずいぶんと「谷村れる」という受動態動詞*2も僕の中では過去のものとなったが、今僕の右手は熱をもって膨れ上がり、まさにヤムラムシに噛まれたときのような形をしている。懐かしさはあるが、しかし痒い。
日本語の使いまわしを話の種にするのなんて、実に大学時代以来な気がする。職場でも家族の間でも、たとえば出身中学で先生がいたお部屋は教務室*3だし、イタリアンといえばみかづきである。まれに地元の個性って何かあるか、と問われると、決まって「無個性」を強調してきたが、そうでもないのかもしれない。