無謀とは知りながらも、未だに"Southpaw"への憧れが捨てられない……。
1.右脳=「知性・感覚」?
左手で日記を書き始める ~創造力のトレーニング?~
この前話したかもしれないが、最近日記を左手で書くようにしている。
左手で #書く習慣 1日目
(一番上だけ右です)#今日の積み上げ ? pic.twitter.com/IUo7SLT0NX
左手で #書く習慣 8日目
早起きでむしろ六文くらい損してる pic.twitter.com/kQ8LnCWFEX
なんでも右手は左脳、左手は右脳と、それぞれ連動しているという。左脳は「思考・論理」、右脳は「知性・感覚」…?ならば、創作のためには「感覚」の右脳を鍛えることも必要である。右脳=左手…
…ということならまだ良かった。この段階でも頭はおかしいと言えるが、動機はもっと低俗である。
左利きに「なり損ねただけ」と疑う ~足は左なのだから~
左手=利き腕と反対側で文字を書く行為は中学の頃からたまにやっていた。つまりその当時から「利き腕を変えたい」という密かな願望は存在したのである。そして憧れるだけではなく、「意外と簡単になれるのではないか?」という、浅はかとしか言いようのない期待すら持っていた。
根拠はこうである。何でも僕は生まれつき左利きだったらしい。
現在でも足だけは左なので、授業でサッカーをした時なんかは「は?何で反対で蹴るん?」という表情をされたものだ。仕方ないので次は右でシュートを蹴ってみたら、案の定「は?」と言われた。もうサッカーきらい。利き足で入らないものをどうしろと言うのだろうか*1。
ところで、手に関してはどうも「矯正」という説はないようだ。左利きの子を幼少のうちに右利きにする―食器や鉛筆を持つ手などは良い例だろう。しかし僕の場合、
「何故かスプーンや箸を持たせたら、右で持ったんだよねえ」(母親談)
とのことである。信憑性には欠けるが他にデータが無い。
かくして「ご飯を食べるときお箸を持つ手=右手」を自然と受け入れてしまった白幸少年は、小学2年生になって野球を始めてもごく自然に<右投げ右打ち>となった。
”左腕””サウスポー”と呼ばれたい!~野球では希少価値~
右手でボールを投げ、左手にグローブをはめること自体には、”第二次現役”(?)である今も何の抵抗もない。こと野球においては、投手・一塁・外野以外のポジションでは左利きは不利ともいわれるようだ。右利きでも外野しかまともにしなかった*2ので詳細は知らないが、問題として挙げられるのは「それ(左利き野手用)のグローブがあまり売っていない」だろうか。
しかし<ポジションの可能性の限定>とは反対に、野球において左利きはめちゃくちゃ重宝される。というか、<可能性の限定>は言い換えれば<特定ポジションへの優遇>としても良い気がする。
それがピッチャーである。
『おお振り』*3の沖一利が「プロフィール欄にはチェック付けてないけど、左利きで投手経験無い、なんてことはないよね?」と監督に指摘を受けているように、「左投げの選手はまず真っ先に投手の適性を試される」と言っても、おそらく過言ではないと思う。希少価値なだけでなく、それだけで武器になる。パワプロで起用法に「左のワンポイント」とあるのもそういうことだ。
それは『おお振り』に出会う前の、まだ”第一次現役”だったころの白幸坊主も感じ取っていた。ああ、マウンド良いなあ。一回で良いから立ちたいなあ。っていうか、高校はマジで全敗とか人数不足でかまわないからピッチャーやらせてほしいなあ……なんて、思考の末にあることを思いつく。
そうだ。利き腕、変えよう。
時期にして、中3の8月。
まるでキャリーケースを引きずって秋の古都に繰り出しそうなコピーのもと、僕の肉体改造(?)計画は幕を開けた。授業中の板書(するふりの落書き)、生活記録表へのコメントなど、あらゆるシーンで左手でペンを握るようになった。 生活記録表にコメントを続けていたら、ある時担任が
≪私の方がうまくないですか≫
と、震える字で返してきたこともある。
持ち手を変えるだけで、ここまで字に思考が反映されないのか、と思うほどには、左手で字を書くのは苦労を要した。手とペンの反発である。それでも負けるわけにはいかなかった。絶対左利きになって、部員数ギリギリで初戦敗退常連の学校に入り「とりあえず、投手やってみようか?」と声を掛けられるのだ―!
……で、1か月半後くらい経過したころには再び右手でペンを持っていた。案の定である。
そもそも進路調査とか願書とか模試とかあるという時期に、震えて機能しない方の手を使っている場合ではない。結局利き腕を変えるどころか、グローブは封印、カスみたいな思い出と最終盤不登校、及びそれによる激太り*4によって、僕の肉体改造(?)計画はあっさりと頓挫するのだった。
頓挫(と、性懲りもない企て) ~左脳=思考も鍛えるべきでは?~
いくら『MAJOR』が「利き腕を変えれば再起が可能である」と教えている*5からといって、そう簡単にできるものではない。あくまでMAJORはフィクションで、吾郎や山根は漫画のキャラクターなのだ。
第一、利き腕を変えたところで投手として開花するわけでも、利き腕に比例して身体能力が向上するわけでもなんでもない。そのことは、現在”第二次現役”で右投げのまま、敗戦処理にすらなれない投手をやっている僕が示すとおりである。
現在の左手日記は「右脳のトレーニング」と称して始めた。右脳=知性・感覚を養い、左脳とのバランスを保とうというわけだ。
嘘である。
動機としてはシンプルに「暇だから」「眠気防止」「興味本位・思いつき」「左利きってやっぱりかっこいい」ってなところだ。あとは
「PCで右手にマウス、左手でペンを操ることができたら効率的だよね☆」
という正当(?)な理由も一応あるのだが……。しかし実際に左手で書いていると「言語ではない何か」を生み出しているように感じられるので、「右脳を鍛える」を目的とした訓練としては多少の効果はあるんじゃなかろうか。
ところでその右手……「左脳=思考・論理」はどのくらい身に付いているだろう。思考はともかく、論理???論理的思考???????
おそらく僕は脳味噌そのものが機能していないのかもしれないと、今、ようやく疑い始めている。
2.おまけ ~冬の新潟地区の電車を眺めようのコーナー~
8・9番線ホームの改札内にもトイレを付けてください(切実)