1.路行にとっての「ここではないどこか」
日常になる謎(?)
高校の時、朝読書の時間や帰りのバスや電車で眠くない時、TVアニメ『氷菓』*2の原案となった、米澤穂信氏の「古典部」シリーズを読み耽っていた。
「古典部」シリーズはしばしば「日常の謎」と分類される。風情ある地方都市・神山と、部活動が盛んな神山高校を舞台に起こる「謎」を、”気になる”の一言で推理し解決していく、っていうのが概要だ。
僕はアニメを見てから原作を読んだが、大筋の物語を知っているのに続きはめちゃくちゃ気になる、という現象が不思議だった。アニメ版では言葉を発さずともキャラクターが示してくれる表情、風景は、活字ではどう現れていたかー*3?これを”メディアミックス”という研究分野での題目に出来なかったのは、選ぶゼミの時代を間違えた、と言わざるを得ない。
その『氷菓』をはじめとした古典部シリーズの著者・米澤さんのデビュー作が、この『さよなら妖精』である。
これはやはり風情ある地方都市だが作中では「好景気のおこぼれ」がまわってきているという藤柴市を舞台に、「何か話せ」という大刀洗万智に応えて、ぶらりぶらりと考えたことを話す守屋路行から物語は始まる。……正確に言うと”日記上は”だが。それにしても、路行といい、奉太郎といい、考え事に長けていて語彙力も豊富な高校生である。シンプルに憧れる。
1991年、マーヤが日本で見た日常、路行に見えたユーゴスラヴィア
そんな2人の前にやってくるマーヤが「転校生」や「留学生」ではなく、何なら途方に暮れていた、という点は、「好景気のおこぼれ」にあやかっているという地方都市の高校生との対比を印象付ける。
当時のユーゴスラヴィアという国(地域)及びマーヤを、路行は遠い存在だと認識しただろう。根拠は僕がそう思ったからである。そもそもどんな国か知らない。だがその周辺には、日本の日常に流れているそれとは全く温度の違う空気が漂っている。マーヤはそこから「逃れてきた」わけではない。6つのレプリカがあるとして、7つ目を作る―これが「統一」なのか「新たに独立」を意味していたのかは、読み解くことができなかった。
マーヤは日本において、その「普段の姿」を知りたいといった。朝に壊れた傘を持ってダッシュする人を不思議がった。紅白饅頭やら、郵便のマークやら、マーヤは色々と不思議がった。ところで墓地ではどう思ったのだろう。これが普段の姿ではない、と弁明するいずるを、マーヤはどう受け止めて、日本を去っていったか。
……なんて考えていたら、現代世界においても争いが始まってしまったな。いや、争いも憎しみあいもどこでも起きているのだ。国と国、鉄砲や戦車……それは一例にすぎない。青い鳥を一回押せば、今は死地に足を踏み入れることもできてしまうのだ。
観光するには時期が悪い
ところで、1990年代前半のユーゴスラヴィア*4のある種<対局>として「好景気のおこぼれ」のさなかにいた高校生・路行が、進んで調査をしているというのは文原同様に驚いてしまった。
だが、こう言うとあまりに安直ではあるけれども、自身の<対局>みたいな存在を前にして「このままでいいのか」という思いを抱いている。そういう路行の姿は、現代の「決して好景気とはいえない」時代に生きる人々とも重なるところはある。それも根拠は僕。悩みは尽きねえんだなあ。
路行の日記は「1991年」または「1992年」である。つまり作中の年代からは30年も経過しているというのに、まるで現代―2020年代に書かれ、現代の悩みを託して描いたような世界を紙と活字越しに見せられて、動きをつい止めてしまった。
そういえば「観光するには時期が悪い」のもそのとおりだ。ただ、マーヤは路行の「観光」を止めてくれる人であったことは、幸運だと言わねばなるまい。
現代では、時折<対局>をうたう世界があたかも幸せそうな顔をして、上から手招いていることがある。異なる世界に飛び立っただけで幸福が掴めるのなら、皆簡単にそうしている。それもまた、真理である。
2.おまけ
最近の暇潰し―「左手で日記を書く」が、22日間続いて終わった。
感想としては「なかなか楽しかった」である。これ以上でも以下でもないが、強いてもう一つ「日記には適さない」を挙げたい。
左手=右脳は”知性・感覚”を司る一方で、”思考・論理”は管轄が違う。つまり利き腕でないのなら、右利きである僕が右脳=感覚を養うために左手で日記を書く、というのは何かが矛盾している。
今この文章を打っている時は多少なりとも左脳=”思考”が回転しているけれど、先の矛盾に気付く”知性”が身に付いたことは右脳トレの成果といえる。
……うん、お金がたまったら最初にやることは「脳の診察を受ける」かな。