読書『真実の10メートル手前』(米澤穂信/2015年12月 東京創元社)
1.些細なズレを生む距離
見たいものを見る
―目とは、人が見たいと思っているものを見るための器官なのです。
短編『ナイフを失われた思い出の中に』の一場面、大刀洗万智は日本を「観光ではない」目的で訪れたヨヴァノヴィチに、そのように説いている*1。
曰く、”目の延長”にある記者という職業は、人が見たいと思っているもの・ことを、注意深く加工して世に送り出すものだと。そして「真実を明らかにすること」は、人間の”目”の仕事ではない、と。
SNSが普及した現代において、「正しい情報を見極めましょう」といった注意をよく見受ける。それまで、言うなれば”記者の手”から書かれた情報を”目”から受け取るに過ぎなかった市民が、互いに記者となって情報をぶつけ合うこともできるようになった。
……だが、そういう現代においての「正しい情報」云々の諸問題は、SNSができたから起こった、なんてことは勿論ない。
それまで人々の”目”の延長としてあった記者も、実は「市民の”目”が見たいと思っている」情報を、事実としていかに切り取り加工するか?―それが仕事であったわけだ。小説の登場人物とはいえど、一人の記者である万智から上記のような言葉を聞けて、かえってホッとした。
ところでこの10メートルという、「”ズレ”を生むリミット」とでも言うべき数字は、さて2022年現代では、どうなっているだろうか。
10メートルも距離が開けば、その間には柵、ブロック塀、ガラスなど、分かりやすい遮蔽物だってある。坂道や川、橋やトンネル。双眼鏡も眼鏡も、ビデオカメラもある。……カメラを通じて覗くと、実際に見たものとはああも違くなるのだなと、難しさを感じる人は一定数いるのではないか。肉眼で見たとしても、光の差し加減では随分見た目も変わる。上から見るか、下から見るかでも違うだろう……花火の話ではないけれど。
さて、現代はどうか?
一歩も動かなくても、せいぜい50cm~1m程度の隙間であらゆる情報に到達できる2022年。”加工”というだけなら、いくらでも可能なのではないだろうか。
加工と責任
この”加工”は人々をいかようにもする。時には、檜原京介のように「作られた結論」でもって、顔を上げることもできる。あるいは、加工されて出回ってしまった事実によって、重荷を背負ってしまった夫妻もいたか?
”真実”によって人が傷つくことがあるとすれば、「嘘」にはならない程度の用意された結論で救われる人がいる、という構図もあるのだろうか。
”目”とは人が見たいものを見るための器官。”目”の延長たる万智=記者の役割は、そこにあるものを切り取り、記すことではないという。
だからこそ彼女は、事実を加工して”誰か”に届けねばならないのだ、という責任を強く持ち、今日も走り回っているのだろう。行方不明者の家族。人の死を目の当たりにし、無力感と罪悪感を募らせる少年。……勿論、これとは反対に、加工して発したものが”誰か”には鋭利な刃物となって突き刺さることもある、というのも、忘れてはなるまい。
用意された結論。真実の手前。見たいものを見ること……。
さて。『正義漢』で大刀洗と喫茶店で話す人物は、結局誰なのだろう?
あえて「なんだその愚問は」というツッコミを買いそうな一文を置いてみる。まあ、万智を「センド―」と”高校時代の渾名で”呼ぶくらいなのだからそれは限られているのだが、仮に”そう”だと仮定するのなら、落胆しそうな人物もいるんじゃないか。
―それがバランスってものなの!この……どぼくねんじん!
『さよなら妖精』の舞台からは、いずれにせよ十五~六年近くが経過した世界線。守屋路行も白川いずるも、どこまで真実を彼らは知ったのか、そのあとどうなっているのが真実なのか。現段階ではそれはまだ、想像の余地がある。
2.おまけ ~マロちゃん、3歳になりました~
相棒のお魚【マスコロ】(マロちゃん)、3歳になりました。
最近「捕食するぞ」とばかり言われている気がするが、優しく利口でたのもしい、相棒・よき弟である。
もうしばらく続きそうな旅路、まだまだ沢山の車窓・味を楽しんでほしい。
ハッピーバースデー、今後ともよろしくね。
*1:同短編第4節。