むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

【鑑賞】巨大な力、未知への恐怖、生命としての成長 ~『シン・ウルトラマン』~

 シン・ウルトラマン観てきました。面白かったです。

 

 

0.「こわい」は真髄 

 

 いきなり脱線する。

 劇場内での密接防止のために間引いている席が、予約画面では「予約済」と表示されている。巷で話題のシン・ウルトラマン、流石といったところで、平日昼にもかかわらず観客の入りは上々、後方の座席が人気だな―なんて思って、やむなく前の席や出入り口付近を予約したものと思われる人が僕と同じようにちらほら、と見えたので、なんか草だった。

 劇場の開演前に特報を流すやつでも草が生えた。何故かって、悉くがホラー、サスペンス、殺陣……みたいな、まあまあ「こわい」やつだったのである。本編を見ればそんなことないのかもしれないけど、わずかに一組だけいた家族連れの小さな息子さんが「こわい~」みたいに訴えて、お母さんに小声で「静かにしなさいっ」みたいに注意されてたのは、まあ……かわいそうだった、としか言えない。

 音も鳴るし、血は流れるし、暗いし危ない。だが、ああいう「こわい」広告はウルトラマン本編に不適合なのか、と言われれば、もちろんNOである。

 

1.ウルトラマンは神ではない

 

”土曜朝9時”のヒーローであるがゆえの、描くに描けないリアリティ

 かくして、巷で大人気のシン・ウルトラマンを鑑賞した。結論から言うと、それはもうヒットするわけだ、と思った。

 前述の劇場広告の話ではないが、ウルトラマンはむしろ「こわい」話としての捉え方をされてしかるべき……とは言わないけど、そういう捉え方や書き方がもっとあっていい、とは思う。

 ウルトラマンだけではないかもしれないが、ターゲットが明確な「ヒーロー」であるがゆえに、本当は書ききれないリアリティがそこには含まれているような気がする。40メートル級(もしくはそれ以上)の巨大生物が暴れていること、地球外の異星人による干渉、それによる人間(特に日本人)同士の変化。

 小さい頃は確かに、必殺光線で颯爽と敵を倒し、か弱き市民を静かに守ってくれるヒーロー……という捉え方をしていればよかった。今でもそれは正しい見解である。

 だが、「敵か味方か?ウルトラマン」という懐疑は、それまでのウルトラシリーズだって明示されてきた。防衛チームとの連携が早いか遅いかの違いで、どこかで「攻撃するべし」「いつまでもいるとは限らない」という議論*1が描写されてきた。

大都市で戦えば「大災害」になる

 40メートル級、もしくはそれ以上の巨大生物が戦うことで、生まれる影響も計り知れない―建物の倒壊、足元に住む小さな生命や自然の破壊、光線や化学物質が生み出す影響である。

 過去ウルトラシリーズでは、街が舞台なはずなのに不自然な”空白”*2があったり、相当な損害を受けたはずの都市が次話で何事もなかったかのように復旧していたり*3、ということもあった。怪獣や宇宙人をやっつけて賞賛されるヒーロー……というそれまでの描写に一石を投じ、怪獣と巨人の戦闘で壊れた大都市の惨状を「新宿大災害」と呼称した作品も生まれた*4

ウルトラマンと人類は互いに謎深く、互いに影響している

 人智をはるかに超える、巨大な力を秘めた異星人―ウルトラマンに対し、人々は様々な眼を向ける。怪獣から守ってくれた、命を救われたと、感謝する者もいる。悪事をはたらく怪獣や宇宙人を倒してくれたのだと、偶然にも目的を同じくした異星人を味方と判断する者もいる。奇跡に驚きながら、大いに感動する者もいる。

 だが、その大いなる力は恐怖も植え付ける。被害を受けた悲しみから憎しむ者もいる。ウルトラマンを狙って現れる怪獣が、地球人類を巻き込むことなんか厭わずに破壊活動をする。地球人類じゃない、宇宙人だ*5、というだけで非難・攻撃の的にされることもある。

 巨大な力を我が物として利用したがる者もいる。防衛チーム、ひいては国家組織による闘争だって始まる。過去ウルトラシリーズで、実は国家の中枢や世界各国の首脳による「権力」が争点となった例はきわめて少ない(というか、ない、といっても良いだろう)。それは卑劣な宇宙人の強大な力を前に隷属するとか、そういう話にだって発展する。……「権力」の問題を差し引いても、このウルトラマンがもつ能力を利用し、我が物にしようと試みる者も、何人もいた。あるいは、強大な敵を前に「ウルトラマン=神様でないと勝てるわけがない、ただの人間は何もできない」と絶望する者もいた。

命ある者として

 だが、ウルトラマンも文明が進んでこそいるが、神ではない。最初の目的なんか簡単に揺らぐし、なんか人間に興味があったから近づいて、その良さも悪さも知って、愚かで美しい未熟な生命のことをうっかり愛してしまったりもする。

 ウルトラマンだってたまに愚かであって、それが自然なのだ。人間よりはるかに長い寿命で、なんでもできそうに見えて、ウルトラマンも成長する。……仲間とともに、である。

 

 それにしてもシン・ウルトラマンのことを、「良いように書き直されたウルトラマンなのではないか」という当初の僕の見立ては、大いに誤りだったと反省しなければならない。むしろ、初代ウルトラマンだけではない、各ウルトラシリーズに”それとなく”、あるいは色濃く内包されていたメッセージや、描けなかったリアリティを、あらゆる面で真っ向から描き切ったといえる作品だった。

 

 あとネクサスを夜9でやれって何万回も言ってる。

 

 

2.おまけ ~『シン・ウルトラマン』に嵌ったらこれも見て欲しい6選(私見)~

 

  • ウルトラマンコスモスvsウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE(2003年)
    →「地球(人類)を守るべきか」という、ウルトラマンの真を問うものでもある。
  • ウルトラマンZ(ゼット 2020年)
    →円谷が本気を出したと言える名作中の名作。前述の「ウルトラマンはいつまでも味方ではないのではないか」という、人類組織による懐疑がキーとなっていく。
  • ウルトラマンメビウス(2006年)
    →仲間との絆、「ルーキー」なメビウスとクルーの成長。不信感、失望、怒り、憎しみ、無力感……様々な心情が飛び交うドラマは、ウルトラマンシリーズ40周年記念に相応しい名作。
  • ウルトラマンガイア(1998年)
    →ガイアとアグル、ヒーローでありながら異なる思想を持つ者は、果たして何と戦い何を守るのだろうか。これも「正義とは何か」「正しい選択とは何か」を常に模索しながら、「命ある者」として成長する”地球の生命”としてのウルトラマン及び人間を描き切った名作。
  • ウルトラマンネクサス(2003年)
    →未知の存在に対する人間の恐怖、恐怖が生み出す混乱、混乱が生み出す悪夢―スペースビーストの襲撃=”怪獣災害”によるリアルに震えること間違いなし。前述の通り、僕は土曜朝ではなく「月夜9のサスペンスorホラー」としてリメイク・再評価されるべきだと毎回思っている。なお、劇場版として最初から大人向けに制作された『ULTRAMAN』(2004年)も機会があれば是非観て欲しい。
  • ウルトラギャラクシーファイトシリーズ(2019年~)
    →幼少期にウルトラマンに夢中だったものとしては、まさに夢の共演・夢の戦闘。これがなんとyoutube配信だというから驚いてしまう。

 

 

 

*1:「地球は我々人類の手で守らなくてはいけないんだ」は良い方向に転んだケースだが、その意思の暴走が「ダイナ」「ゼット」にあらわれる。

*2:もちろんネクサスのメタフィールドのようにウルトラマンが配慮して中心街での戦闘を避けたり、防衛チームが被害の拡大を防ぐために怪獣を食い止める例もあった。

*3:『SSSS.GRIDMAN』(2018)については、このあたりの不自然さに主人公たちが惑わされる描写もあるが、果たして。

*4:ウルトラマンネクサス(2003)、及び映画『ULTRAMAN』(2004)。

*5:ウルトラマンタイガ(2019)においては特に、地球上における宇宙人との共存がテーマのひとつとなった。