むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

ポジションとカバーリング考

 久しぶりに電源を切ってぐっすり眠り、アラームに起こされない穏やかな一日であった。

 

 

1.たらい回し

 

 今月いくつ目かもわからない現場に飛び、どこへ行っても大して何もできずに実働時間とオマケをもらって帰ってくる。忙しいふりをしながら、終わるころには「何もなかった」とぼやく、結局はそんな八月の過ごし方を例年通りにしてしまって、あ~あ、滑稽だなあ、なんて思うわけだ。

 ちなみにオマケは美味しかった。日陰でアイスバーを食べることもあれば、余ってもらった肉の串をビールのつまみにしたこともある。なんだ、夏らしい。わりと楽しかったかもしれない。

 

 そんな今月は「初めまして○○です」「学生ではありません」という自己紹介文的なやつと共に、この言葉が口癖になった。

たらいまわし

 

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 元々は芸者が「仰向けに寝て、たらいを足で回す曲芸」とのことだが、現代では人や物などを順送りにすることの意味で、送り手だけでなく受身の「送られる」側を主とする表現も馴染みがある。近年よく目にする「病院を―にされる」とか、あとは何故か贔屓球団関連で目にしてしまう「ポジションを―にされる」とか。

 

 自分のことを曲芸に使うたらいに例えて、おれはお上に遊戯の道具にされているのだ!……なんて、各所で言ってまわる。つくづく滑稽なことだ。これは曲芸だとしても、道具に拒否権がある珍しいパターンなのに。

 拒否するとどうなるか。簡単なことだ。僕が座れるかもしれなかった椅子に誰かが座る。誰かに取って代わられる。それが良いのか悪いのかは互いに判断すればよく、僕は自分の意志と責任の下で、時給と引き換えに「たらい」になることを今日に限っては拒否したのである。

 よく「コロコロとたらい回しにして、酷いではないか、お上は何を考えているのか」と僕は愚痴を吐いている。手書きの日記には1ページで2度のペースで出現するこの単語。確かにこうも現場を転々とすると落ち着かないものだ。人間関係や暗黙の了解も含めた「郷」のやり方をその都度覚えて従い、忠実に実行しなくてはいけない。……こうされる原因はなんだろう。能力?態度?単なる補充?

 しかし、誰の足に回されていったって、コロコロと回るか拒否して壇から降りるかを選ぶのは、他でもない僕自身なのだ。仮にお上の頭脳がお蕩けになって、お鼻からおこぼれになっておいでで、本当に足で回す遊戯の最中なのだとしても、少なくとも今「盥」であることをやめるのはベストではない。できることならあまり広範囲じゃないところで回されたいところだが、どのみち壇を降りればいつぞやの沼に沈むか、あるいはゴミの山に埋もれるかを選ぶこととなるのだ。

 

 自分が受け手のときは、そうやって使われているうちが華で、拒んだ瞬間に誰かに代わって降ろされるのだ、と割り切るしかあるまい。だからこそ、だろうか?観ている方―第三者の立場だと「かわいそう」とか思ってしまうのかもしれない。贔屓にしていればなおのこと。

 固定できない事情は何かあるのかもしれないが、それが明かされない以上、チームの核となるべき選手より控えや新入団の選手のポジション・打順が優先されている、としか映らない。つまり「じゃあこのチームの核って誰?」とか「このチームの理想像って何?」とか、やりたい戦術も方針も何も見えてこないのだ。これに付き合って、まるでパワプロのようにポジションをコロコロとさせられている選手を観ていると、申し訳ないけどそう思ってしまう。

 どうしても挙げたい選手が一人いる。島田海吏。

 8月は、中野拓夢や近本光司の離脱があったことにも影響し、2番だけでなく1番で出場の機会も増えた。月間打率は3割を超えるなど打撃向上が目覚ましく、レギュラーの位置を獲得したと言ってよかったはずだ。中野、近本が復帰すれば、本来の2番や右翼・左翼にまわるのか……と思いきや、なんと内野を追放(あえてこう書く)されてきた大山悠輔や佐藤輝明によって、先発から外れるゲームがあるではないか。

 大山や佐藤も、これだけ試合によって何もかもが違うまま臨んでいる。彼らがチームの「核」となるべき、というのは、僕の勝手な勘違いだったのか?そうだとしても、少なくとも打線を中心として引っ張っている選手は今のところ彼等であり、その選手が「空いた穴に入る」みたいな使われ方になる=「たらい回し」にされるのはどうなんだろう。それでいて、好調の選手はスタメンを外されている。活躍すればスタメン落ちだなんて、やっている方としては訳が分からないはずだ。

 存続と向上を目指す組織としての是非は色々な考え方があると思うけれど、僕は少なくとも「パワプロ」以外の何かに映る戦術になって欲しいなあ、と願っている。

 

 

2.ポジション考

 

 ポジションで思い出した。

 ある現場ではさらにポジションが分かれていて、それぞれの役割が明確になっている。その日「Aの①」という配置に就いた僕は、同じAの②という配置の人、またBの①②という配置の人と協力し、Cという本部バックアップのポジションや、その日のボスの指示を仰ぎながら業務を進めた。しかしAの①は、Aの②やBに比べると少し楽なので、僕は極力フォローに回ろうと思っていた。Bの仕事は近くで見ていたし、同じAのポジションならどちらもできなくては駄目だ。そう思った。

 ところが、Aの①である僕が、Aの②の仕事を一部代替しようとした。すると、②でもBでもなく「ボスから苦言が来るからやめたほうがいい」と言われた。えっ?と口走りそうになったが、本当に出てしまっていないか不安だ。何でも「それあなたの仕事じゃないですよね?」みたいに、いちいち言ってくるのだそうだ。

 最高に意味が分からなくて吐きそうになった。まあ、よく考えてみると②やBにもそれぞれタイミングがあるのだから、かえって混乱するのだろうか。①と②、AとBで把握している事実が異なって、どちらが本当なのだ、とボスは思うのだろうか。それもそうかな、と思ってその場は納得した。

 

 だが、あとでたまたまBのポジションに就いていた人から「このポジションじゃないと嫌だ、なんて我儘だよね。A、B、Cもできないと、ほら、助け合いじゃない」って言われて、偶然にもフォローされた。それはそうである。ポジションというのは結局のところ、チームで一つの目的・目標を完遂させるために分かれている。そのほうが単純に効率がいいからに過ぎない。

 ホテルの清掃だって、それが部屋か、階層か、あるいは内容かはいずれにせよ、役割を分けてチームで実行する。だが、ゴミ剥ぎは早く終わったらベッド・水回りのフォローにまわり、水回り・ベッドは剥ぎ忘れたゴミのチェックになる。最終的な目標は全客室を「時間内に」「綺麗にする」ことに他ならない。

 当該現場でも、「できる・できない」は問わず、いざというときに目的の完遂の為にはポジションの垣根を越える必要はある。Aだけ全うしたので後は知らない、では通用しないのだ、と心得ているつもりだ。もちろん、BしかできないからAもCもやりません、も良くない。幸運なことに、そういう人とこれまで組んだことはないけれど、もし組んだら嫌だなあ、なんて思う。

 

 野球はフィールドに立つ9人が、投・捕・一・二・三・遊・左・中・右のポジションにそれぞれ分かれている。僕はこれまで左・中・右―外野手を主に担ってきたが、特に外野手は「8割*1が内野のカバーリング」だと教わった。打球を実際に処理するよりも、他のポジションをバックアップして、エラーなどに備えることのほうが重要だという。レフトをやっていれば、三塁への悪送球をカバーする必要がある。センターなら二塁送球だろうか。あとは他の外野手であるレフト・ライトをバックアップすることも重要である。

 大人になって、草野球から始めたピッチャーも、ファーストゴロに対する一塁ベースカバーはもちろんのこと、三塁や本塁返球へのカバーなどが求められる。これは「次にボールはどこへ送られて、どういうリスクが予想できるのか」を周知……せずとも、なんとなくその行く末が予想できて、あとは体力が許せば(←ここ重要)実行できる。そこまでルールを知っている必要はなく、とりあえずボールが転がっていると点が入っちゃうかなあ、みたいな考えさえできればOKで、故に取りに行かなきゃいけないのだと思ったら動く足を信じる。

 どこのポジションの適性……というのは、確かに配置する側には考える義務がある。空いたので入れる、面白いので入れ替える、では困る。だが、配置についてプレーする側は、実際に就いていなくても「自分の配置がどうこう」ではなく、カバーリングー助け合いの視野を持つ必要がある。そして配置の役割ではなくて、最終的なチームとしての目標・目的を追求・完遂せねばならない。

 もちろんそれは、たらい回しをされても文句を言うなということではない。また、今もあるのなら呆れかえるが「下手だから外野に」されているプレイヤーは首脳陣に断固抗議しよう。ただ、これらの場合は自らを客観的に見ること・首脳陣の考えを持つことが重要であるから、チームにとって自身が当該ポジションに就くことで生まれる効果を説くべきである。

 

 ……何の話だろう。時計の針が午後3時を指している。元々暗かった空は僅かな西日により、その灰色をさらに強調されたようだ。

 めっちゃお腹空いた。

 

 

 

*1:数字は指導者によって差があるが。