むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

【読書感想】「勝利の追求」は倫理に反するのか -『マンガで学ぶスポーツ倫理』

 スポーツマンシップとは結局のところ、いったい何なのだろう。

 

 

 

1.「試合に勝つこと」はスポーツマンシップではない?

 

「勝利の追求」と「趣味・娯楽」は対立するのか

 

 このテーマを意識するようになったのは、中学での厳しい練習や風潮を体感し、また自身の進路を意識したころである。つまり少年野球ではそもそも考えない。これが「そういう思い込みをさせられている」のか「自ら考えることを放棄している」のかは分からないが、中学卒業と同時に競技を一度離れ、大人になって「趣味・娯楽」の範囲内になってからようやく、こういう問題を考えるようになった。

 その「趣味・娯楽」としての向き合い方ですら、言ってみれば批判(非難?)の対象になり得るかもしれない。少なくとも、メディアで美談として取り上げられるのは、そういう思考からの「脱却」であり「意識改革」である。で、高い目標―例えば金賞だ、甲子園だ、インターハイだ……というものが掲げられ、チームは変わっていく。

 結論から言うと、そういうチームには僕はなじめない。順位や勝利だけが全てというスポーツの意識は、必ずしも競技者の人生を豊かなものにはしない、という意味合いで、「勝利至上主義」には全力でNOを掲げることにしている。

 

もし勝利に向けた一切の努力・練習を放棄したら

 ところが、では競技中に一切の勝利を放棄したらどうなるのか。

 野球を例にとる。攻撃側は打席に立ちさえすればあとは立っているだけでもいい。3球ストライクを取られて、それを27回繰り返していれば良いのだ。だが守備側は、ピッチャーがボールを投げなくてはスタートすらしないとして、投球を受けるキャッチャー、打球を処理する守備陣がその役割を放棄すると、それはゲームとして成立するのだろうか。相手に得点が入るだけならいいが、問題は「試合がいつまでも終わらない」ことである。

 時間制で区切られているバスケやサッカーはどうか。一方が立っているだけでも、勝手に試合は進み勝手に試合が終わる。笛が鳴るのを待つだけである。……だが、その真意はいずれにせよ、ボールを支配され、時間が過ぎるのを待ち、スコアは勝手に開いていく―そういう「一方的」な光景や、何もしない・できない自分たちを見て、プレイヤーはどう思うのだろうか。

 少なくともそれは「楽しく」はないと思われる。

「 楽しむ」=「勝利の否定」ではない

 スポーツを「楽しむ」ということは、つまり必ずしも「勝利の否定」ではないといえる。というより、勝利が目的でないにしても、試合中に行うプレーはいずれも勝利を目的とするものだからだ。バットに当たらないからとセーフティーバントをすることも、直球が通用しないのでスライダーやチェンジアップを投げることも、試合における勝利を放棄したのならまずやらなくてよいことである。

 且つ、それらを可能にする技術・体力を習得するために練習とはある。ゆえに「スポーツをゆるく楽しみたいので練習はいらない」というのは、本来は矛盾するといえる。楽しくやりたい、それなのに練習があるなんておかしい、勝つためにやるなんてもってのほかだ!……と思ってみたが、実際は一方的に敗北し、技術や体力の不足を痛感するばかりで、ちょっと楽しくないなあとか、もっと楽しみたいのだけどなあ、みたいに思うのではないだろうか。

「楽しむ」行為は勝利の追求に繋がっている

 スポーツはあらゆる目的の実現の為に行われるが、本書中第2章「スポーツマンシップ」にある、以下の記述は真理だと思われる。

競技者はある程度ルールに従ってプレイする必要があるだけでなく、互いに自らの勝利をめざしてプレイしなければなりません。したがって、もし競技者としてのあるべき姿をスポーツマンシップと呼ぶとすれば、ルールに則した勝利の追求、言わば「勝利至上主義」こそが、スポーツの試合の目的に由来する最も基本的なスポーツマンシップであるはずです。 -第2章「スポーツマンシップ」(p28)

 本書のここだけを切り取ると、「勝利至上主義こそやはり全肯定されるべき」という意味合いに思えるかもしれない。且つ、これもまた真理だと思えるようになったのは、「趣味・娯楽」の範囲において「勝利を追求しない」ステージとして野球のグラウンドに戻り、そのマウンドに立ったときであった。

 プレッシャーから解放されて、怒鳴り声もなく、のびのびやれるのはいい。だがストライクが入らないし、かと思えば甘く入った直球を痛打される。アウトカウントが増えないまま点差だけが開いていく。終わらない5回裏の守備、静まり返る味方ベンチ。決して「楽しい」だけではない生涯初登板だった。

 ゆえに、どうすればストライクが取れるようになるか?打ち取るにはどうすればいいか?得点するにはどうすればいいか?―これらを考え、また練習や試合で実行しているときが楽しいと思える時間であった。それは皮肉にも僕が一度は否定した「勝利」の追求であり、本書ではそれの究極が「勝利至上主義」と呼称されている。

 

「勝利至上主義」のはき違え

 実に滑稽な姿であり弊ブログであるが、それらを少なくとも否定したくなる「問題点」も存在する。それは上記の「勝利の追求」故かは如何にせよ、以下の行動をとることである。

①わざと反則やファウル、ラフプレーをする*1

「相手のエースをマークするあまりわざと転倒させる」という、バスケの試合での一幕が問題視されるところから本書は始まっている。これに対し「ちゃんとペナルティも受けているじゃん」という反論が存在する。

 だが、これらで本当に相手エースが故障した場合、「プレー中の怪我」で済ますつもりなのだろうか?そもそも故意かはともかく(R5/2/9追記:且つ、スポーツに限らず)可能な限り怪我……ましてや他者に怪我をさせるなんていう事態は、回避するべき*2である。

 なお本書では野球における「サイン盗み」も取り上げている。二塁走者から打者へのサインの伝達は禁止事項だ。だが、これに関して補足をすると、まずいのはあくまでも「伝達」の行為であって、例えば「カーブのサインだから三盗する」のは問題ないのではないか?

 あえて言うと、僕は「バレなければ良い」は決して嫌いな言葉ではない。だが大っぴらにやってしまうからマズいし、そうやすやすと卑怯がまかり通ってしまったら試合は成立しないし、してはいけない。それは「楽しくない」からである。

②勝利が決定的な試合で攻め続ける*3

 高校野球で特にこういう光景を見ると胸が痛む。それに本書で例示される「主力が退いて控えの選手を出す」ことに関しては、いったい何の問題があるのだろうか。確かにプレーする側としては最後まで出場したいものもいるだろうが、マネジメントの視点で言ったら妥当な作戦と言える。

 野球においては、5点以上リードで終盤に入ったら盗塁してはいけないという、暗黙のルールがあるようだ。「やってしまいましたなあ」というなんj語はここから生まれている。ちなみに草野球では20点差以上でホームスチールを仕掛けるチームもあるというが、もし次やられたら即刻の試合放棄と、以降の交流を全てお断りするべきである……と、自チームには言いたい。

 明らかなレベルの差があるとか、試合の中で大差がついた等の問題は、一概に言えない部分は大きい。(R5/2/9追記:点差が付いたのを理由に「プレイヤーが手を抜く」「相手チームへの”お情け”が見られる」なども、観方次第では「大差の象徴・誇示」と捉えることもできるだろう。)だが、こと野球に関して言えば、コールドゲームの設定には基準の追加が望まれる*4

③失敗したら怒鳴られたり叩かれたりする*5

 色々と酷い。よく「行き過ぎた指導」と取り沙汰される指導者の体罰問題だが、読めば読むほど単なる犯罪行為であることが多い。当然、スポーツなどやる資格はない。

 また、よく問題になるのが暴言、野次である。プロ野球におけるファンの野次などは、まあなんだ、あの……強烈だなあ……という感想しか抱かないが、これが少年野球のネット裏で見ている保護者とか、ベンチにいるコーチ陣からも聞こえてくるのは問題だと思う。草野球でも、味方・相手問わず選手を罵る声が、残念ながら聞こえてくる。

 

 

2.スポーツの楽しみ方、スポーツに関わる目的

 

 本書では他にも「性別に分かれて競技することは男女公平か」「ドーピングの是非」「観戦と特定チームへの肩入れ」など、スポーツに関する倫理のややこしい問題を計10項目から考察している。

 

オリンピックは日本を応援するべきか

 第8章「ファンの姿勢」*6では、サッカーの日本代表戦で、好プレーで日本の前に立ち塞がる他国の選手に対し、好プレーを讃えるか、あるいは日本が失点した=敗戦のピンチになっているから危惧するのか、という問題が取り上げられた。特定チームを贔屓するべきか、という問題は、今度はスポーツを観る側の視点として非常に興味深く、また複雑である。

 だが、ことオリンピックに限って言えば、僕としては特に日本が勝ってもなあ……と冷めた目で見てしまう。今回のサッカー日本代表戦も、その躍進が目覚ましかったとは聞いていたし、昨年の東京オリンピックでも日本勢の活躍が大きく取り上げられた。野球も他国を退けて優勝。日本中が歓喜の渦に湧きました!―なんて言われていたなあ。

 確かに日本人選手の活躍は「すごいなあ」とは思うが、それは別に他国の選手でも「すごい」ではないか。スポーツを観ていて、そういう代表選手の「すごい」プレーを目の当たりにして、感動して拍手で讃えるなんてことは、何も不思議ではないと思う。

 ただし、NPBにおいて僕が阪神タイガースを贔屓しているように、特定チームの勝利に湧く、というのも不思議ではない。したがって日本代表を応援しても、また他国に好きな選手がいて応援するのも、それは自然なことだと思われる。

 ところで、オリンピックで日本代表になることは「日の丸を背負う」とよく表現されるが、戦時中じゃあるまいし少々重すぎやしないだろうか……と、国際試合開催のたびに思っている。

 

楽しくなかったら、やらない(楽しみ方や程度が違うだけ)

 本書への感想としては、観るのもやるのもスポーツの目的は「楽しむ」ことに尽きるのではないだろうか。それが職業にならない限り、である。

 問題は、どういうスタイル(どの程度の加減)を「楽しい」と捉えるか。チームそのもののレベル、活動頻度、練習内容、個々の目標―。学生のうちは、プロを目指しているから楽しさなんていらない、という子もいるかもしれない。いずれにせよ、スポーツのどういうワンシーンをもって「楽しさ」とするかは人それぞれとしか言いようがなく、チームであればすれ違いは避けられない。

 大人になったいまは、歪んだ慣習・思想から解放され、野球そのものを追求できる環境にはある。ただ滑稽なことに、一度は否定した「勝利」という概念を、配球や戦術の考案、技術や体力の習得……といった点で肯定している。だが、「勝利至上主義」という言葉が、本来人の一生を豊かにしてくれるスポーツを、かえって汚すものにならないことを願ってやまない。

 

今回読んだ本

『マンガで学ぶスポーツ倫理 ~わたしたちはスポーツで何をめざすのか~』

化学同人『マンガで学ぶスポーツ倫理 ~わたしたちはスポーツで何をめざすのか~』(林芳紀・伊吹友秀 著/KEITO 漫画/2021年7月)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:第一章「ルールと反則」(p16)。

*2:投球数過多にも関わらず連投を強いる監督なども含むものとする。

*3:第3章「大差がついた試合」(p40)。

*4:3回以降で17~18点差以上の場合や、回数関係なく25点以上の場合など。

*5:(第10章「勝つということ」(p126)。

*6:p92~。