むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

正月解放宣言 -2023.1.3

 仕事始めである。

 

 前年に何かを納めたわけでも無いし、「○○はじめ」だからといってやることには何も変わりはない。強いて言うなら、月頭やシーズン頭特有の処理―例えば月謝対応や教室申し込み、まとめ払い?そんなところが挙がる。あとは月間スケジュールを教えてくれとか印刷してくれ、とかかな。つまりやること自体はそんなにない。

 にもかかわらずドタバタとしているとき、それはつまりやらかしの類をしたときだ。今日はやらかし始めだったのである。

 

 今年最初の営業日は通常より短時間で、且つ事業も縮小している。本格的に施設が動き出すのは少なくとも明日からで、つまり僕のやらかし度合いも来週から加速するということになりそうだ。しかし、暇な時は暇な時で特大のポカをやるので面白い。

 それは置いておくとして、動き出す日時は他所より少し早いけれども、スローペースで動き出して徐々にギアを上げていくスタイルは、良いと思う。折角始動したはいいが、またこれを書いている約15時間後には連休に突入してしまうのだ。

 ……良いのか?その内容を考慮しても、まあ、うん……ただ、強引に変化を求めた結果が去年の失敗ではなかったか。現在不思議と何の気配も機運も感じないので、おとなしくしておくのが良い。そう本音が呟いている。

 

 三が日が終わる、と各所から嘆きが聞こえる。わかる。

 やっぱり世間のこの「日曜の夜症候群」みたいなこの空気に触れてしまうと、つられて悲しくなってしまう。こういう時に僕はあえて景気づけに夜から出かけてみたり、あえて深酒をしたりするのだが、まあ「黙れ」と言われそうなのでやめておく。僕とて前者はともかく後者はおすすめしない。だが、豪華列車は旅行の復路にこそ狙うべし、みたいな感覚ではないだろうか。

 まあ、正月と訊くと、イコール三が日―そこにある怠惰や強欲、あるいはその他「罪」な諸々あれこれを許容、なんならそれこそ正義とするような風潮と、華やかさと気だるさ、もの寂しさ、忙しなさ……みたいなものが、同時に含まれるような数日間のことをイメージしてしまう。

 他にすることがないと言えばお菓子やみかんを食べ過ぎて、こたつやホットカーペットからは離れられず、眠くなって惰眠を貪り、酒を呑む。かと思えば、箱根駅伝やらサッカーやらを観戦し、年賀状や挨拶回り、普段会わない人との会合、お年玉のやりとり、初詣に行ったり―全部それらは「普段はやらない」ことであり、またそれらをするべきではないかのような雰囲気にすらなる。

 だが、その年賀状や初詣の願いで言うような「今年は(も)よろしくお願いします」の今年とは、これから始まる極めて憂鬱な、でも目まぐるしく動き出す日常の中にこそあるのではないだろうか。願わずとも「変わらず変わっていく」日常の中で、変えられるものを1コマ、1ミリ程度、変えていけるといいですね......みたいな、そういうことであると思う。新年の挨拶とはむしろ、憂鬱で多忙で退屈な「日常」へのこの上ない渇望であり、また約束なのではないか。

 

 ……と思ったが、渇望や約束をしても僕の「日常」がそこにあるかどうか、という問題は未だにつきまとっている。それに、逆に「日常」が日常であったころ=前職の僕はやっぱり、だるい帰りたいてか休みじゃね、普通に草、などと繰り返していたのだった。変えられないものは変えられない、それはつまり「だるいものはだるい」ということである。

 

 ではむしろこうするのはどうか。「正月明け」「仕事始め」を乗り切ったら、その記念に打ち上げをするのは。我ながらこれは理にかなっていると思う。こんなに難しい一日を、よく生き延びて帰ってきた!と。難易度はMAXのクエストをクリアしたのだ、エンディングは豪華にしてもらわないと。

 もちろん、年末年始に仕事だった人も、盛大にやっていただきたい。例え束の間の一呼吸、少しの癒しに過ぎなくとも、安らぎが訪れてほしいものだ。

 

 これは三が日という気だるさと華と忙しなさに満ちた檻からの解放であり、約束した日常への回帰あるいは到達である。

 同時に、「仕事帰りの一杯」的な風景も戻ってくるだろう。それはそうである。ご褒美がなければ、こんな世界で生きていられないじゃないか。

 なので明日の今頃はビールを吞んでいる。今からも吞むかもしれないが、明日の晩だけは約束しておこう。そんな火曜日の23時である。