むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

はるのまぼろし

 随分とせっかちな春の便りだと思っていたが、幻だったようだ。

 

 

 

1.

 

 先週の木~土あたりは結構晴れて、気温もそれなりに上がった。1月前半の越後平野としてはあまりに不釣り合いといえる空模様が、僕や相棒・マスコロの五感に相対する。

マスコロ「捕食するぞ」僕「あっちも逃げてて草」

 確か午前勤務の日があって、やはり快晴なので、買い物ついでにドライブにでも行こうと思った。仕事とはいえ朝から活動していると、一日を有効に使うことが出来る―と思っていたが、意外と何もできずに終わった。植物園のため池まわりを歩いてみたら、もう日が丘の陰に隠れている。

 春を踊るには、少々早すぎたようだ。普通に寒かったし、何なら結局数日で気温は降下線を辿る。まだまだ日は短い。出かけるには早い。……ん?

「そんなん知らん、わからん。とっととどっか連れてかないと捕食するよ」

 はい。

 

 何かを察したのだろうか、鴨の大群が水中へと逃げていく。あれこれ言い訳を重ねてどんどん人間として終わっていく主に腹を立て、今日も魚はぐわーっ、と大口を開けているのだ。

 

 

2.

 

 最近その主(=僕)がツイキャスにはまり出した。配信と称してひたすら虚空に向かってしゃべり続けているだけの姿は、3歳魚にはどう映っているだろう。それは置いておくとして、これが中々に楽しい。

 密かな憧れとして「フォロワー・視聴者・読者の皆様から頂いた質問に配信で回答する」ということがあった。これを完全なる自作自演で実行したので、かなり痛い絵面だったが本人としては非常に満足である。ついでに言うなら、自分で作った自分への質問の癖に「聞かないでくれ」なんて言っちゃったりするところがポイントだ。

 これは所謂「ゼロ秒思考」が手書きから喋りへとその手法を変えただけのアウトプット法であり、またストレス解消法なのだ、と僕は虚空に向けて言い訳を述べた。が、あながち間違っているとは思わない。どちらを選ぶにしても極力「言語化」にかける思考時間を0秒に近付けていくことが肝要である。

 

 ところで、大学入学時、各サークル中で(何故か)2番目に訪問した放送部の説明会で、こんなことを誰かが言っていた気がする。

「ラジオでは3秒沈黙があると放送事故なんだぜ(キリッ」

 これは中々に高度である。一人で思考するのならともかく、対談や不特定多数のリスナーがいる中でさえ、ラジオや配信に与えられる「言語化」の時間は少ないのだ。

 甘っちょろかった。何が「密かな憧れ」だよ、何が「実はですねえ、親愛なるフォロワーの皆様から質問を頂戴していないんですけど、10個のお題に答えていきたいと思いますぅ☆てへっ」だよ。いい加減にしろ。すいませんでした。

 

 ちなみに今後も全く懲りずに配信するつもりだし、全く反省もせずにマシュマロの個数を偽造して、今後も愛すべきフォロワー・リスナー・読者の皆様から頂くコメントに回答していきたい所存である。

marshmallow-qa.com

 

 

3.

 

 つまり暇なのだ。

 正確に言うと特大のポカを何件も引き起こしていたが、ここに書けるようなことが何もないのを思うと、極めて何も無かった一週間だったといえる。そして書いていて思う。何もないというのは素晴らしいことだ。

 勤務をしていても、僕のやらかし以外は暇だった。文字にするとなんとも情けない光景だが、PCで地図をスクロールし始めるくらいには暇で、そのくらいの加減がなんとも心地よいのである。

 PCの画面に浮かび上がり、拡大・縮小される日本地図を見て、どこをどういうルートで辿るべきかと、あれこれ妄想を膨らませている。なんでもお得なフリー切符の存在を知ったから、さてどう活用して、鉄分全振りの極力頭のおかしい旅をしようか―そんな皮算用をしているうちに、日曜の夜みたいな悲しい静寂に包まれた一日が終わる。

 

 これが心地よいのだということにも、ようやく気が付いた。前職でも同程度に暇だったはずで、僕はその「何もなさ」を愛していたのになあ。忙しいときは確かに時間が早く過ぎて「生きている」という実感をしたりもするが、まあ、ほどほどにしてほしい。

 だが、脳味噌がボケて草だらけになるとまた要らないポカミスをしてしまうから、塩梅は非常に難しい。それに、「明日は何か面白いことあるといいなあ」って思い続けて、もう16日も経過している。その、何か、を待っているだけなのが実に心地悪い!と思っていることが、上記の「心地よさ」の正体なのかもしれない。

 

 つまり何が言いたかったのかというと、実に何も無かったよい一週間であった。何か面白いことあるといいなあ~、と、その明日の「何か」とやらを待ってみることにする。