むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

曖昧さと不完全

  こうも天候が悪いのでは、引きこもって動画視聴でもするに限る。

 

 

 

 

1.『ぼっち・ざ・ろっく!』

 

 Huluに登録して『ぼっち・ざ・ろっく!』を観ている。

bocchi.rocks

 以前原作の単行本(第1巻)を買ったのだが、アニメで観てその「リアルなライブハウスとバンド像」みたいなものはより浮かび上がった気がする。まあ、漫画で音が鳴るわけはないのだから、映像になって音が付くことにより、その真価を発揮するジャンルなことは間違いない。

 

 で、楽曲がたいへんすこなことはさておき(←その歌詞・音色ともに最高の一言なので聴いてほしい)、何がクリアになったのか?というと「キャラクターの承認欲求」である。僕が読者になっているブロガーさんの記事で、ギタリスト・後藤ひとりを形容したといえる四字熟語の受け売りなのだが。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 例えば放課後ティータイム平沢唯(『けいおん!』より)とか、Poppin'Partyの戸山香澄(『BanG_Dream!』より)といったキャラクターと、後藤ひとりのキャラクターは一線を画すものとなっている。それは作品全体にあてはめても過言ではないかもしれないが、バンドリはともかく『けいおん!』は明らかに舞台を高校の軽音部且つ文化祭に設定したのに対し、『ぼっち・ざ・ろっく!』はライブハウスである。メンバーがたまたま高校生だっただけで、大学生や社会人が混じっていたり、加入の経緯もネット掲示板だった可能性だって、大いにある。

 それに、和やかな唯ちゃんや、元気いっぱいの香澄は、その持ち前の性格でコミュニティに溶け込み、また周囲を巻き込んだり引っ張ったりすることさえできた。一方、ひとりの場合は「ぼっち」である。

 あえて言うのなら、彼女の「チヤホヤされたいけど友達がいない」という現実は、彼女が一人での演奏を配信することに頼り切ったゆえ、より加速したのであった。おかげでネットではチヤホヤされることに成功……していたように見た限りでは思えたが、現実世界では誰にも話しかけてもらえず、自分から飛び込んでいくこともできていない。

 部活を決めあぐねて夢中になれることを探し、結果「居場所」を確立した唯ちゃん。「キラキラドキドキ」をひたすらに追い求め、周囲を巻き込んだ香澄。彼女らと対照的に、”高校生”とか”青春”とか”文化祭”という要素に文字通り「コンプレックス」を感じてきたひとり=ぼっちちゃんと、ライブハウス(ハコ)のライブに重きを置く結束バンド。より「バンド」及び「バンドマン」としてのリアルさをクリアに映し出す作品……といえるのではないだろうか。有識者の皆さん、ご意見お待ちしてます*1

 

 これはバンドマンに限らず、多くの現代自称「陰キャ」の共感を誘うのではないか?と思った。ひとりはyoutubeだが、ブログ、それこそSNSだって、とにかくネットは陰キャの居場所であり、オアシスであり、ホームグラウンドである。このらくがき帳も、あれこれ言い訳をしながらも結局、上記の欲望がその中身の9割を支配している。

 それでいて、現実で自分を売り込むのは、やっぱり苦手なのだ。認めてもらいたい、チヤホヤされたい!でもその実は如何にせよ、口から出るのは「自分の作品には価値が無い」「下手だ」などである。……とっても共感してしまう!が、その思い込みが眠れる才能にロックをかけている、という事例は、まあ……あるかもしれないしないかもしれない。

 

 あと、ぼっちちゃんがメッセージアプリで、バンドメンバーに丁寧すぎる口調になるのも面白いと思った。なんだか、僕のバンド最晩年に親しくしていたメンバーを思い出す。まあまあ楽しいことも多かった。しばらくそれらしいことはやりたくないが、あの頃やっていた曲もまた聴いてみようか、とは思っている。

 

 

 

2.『ウルトラマンデッカー』

 

 そういえば、今日はウルトラマンも、また一つの可能性世界でその戦いに区切りを付けた。

m-78.jp

 最高に激アツ!

 なんという語彙力の無さか、と我ながら呆れる。

 

 だが、この世界の彼らはまさしく「ただがむしゃらに 呆れるほどにまっすぐに」最後まで走り抜けたのだった。そして結局のところ、ずっと探していた意味とか目的みたいなものは最後までわからなくて、でも……いや、だからこそ、そうやってこれからも戦っていくのだと、彼はいう。

 戦う理由が明確でなくて、でも未来を切り開くためには目の前の困難に立ち向かってゆくしかなく、バラバラで不完全なまま手を取って、それでも彼らは走っていく。「やりたいから」ではなく、「やらなきゃって思うから」やる。

「やるしかねえ!今、やるしかねえんだ!」

 これらの我武者羅さは、あの日『ダイナ』を観て育ち、いま不安定さと無限の可能性のなかで生きる世代にとっても、刺さったのではないだろうか、と推測する。……それはリアルタイムでなくても、DVDをしょっちゅう借りてきていた僕も、例外ではない。

 至ってストーリーとしては”シンプル”にまとまり、王道のど真ん中オブど真ん中を貫き通したようなものになったが、それが好きであった。同時に、その堅実なつくりと「がむしゃらに」「真っすぐに」戦うキャラクター達を、いいな、と思った。

 

 

3.わかんないけど、「今やるしかねえ!」ことをこれからも

 

 ここ4~5年間くらいの僕は、例えば「”何者か”である」とか「やりたいこと」とか、そういうワードに出会う機会が増えた。Twitterなんかを見ていれば、いやでも目に入ってくる。

 

 同世代やもっと若い人たちが、自分より数段裕福に暮らしている。身近な友人が、情報の海の中で強烈な個性を発揮している。そういう姿を知って、自分の中には「このままでいいのか」「自分って何者なんだ」と思慮する―そうやって踏み出して”成功”したという例も、確かにあるとは思う。

 だが、ぼっちちゃんのようにギターを弾いて配信やライブをするとか、カナタのようにデッカーに変身するとか、そういう「何か」がなくても、「明日生きるために今やるしかねえ」ことって、本質はそんなに違いはないような気がする。

 というか、チヤホヤされるという目標があっても、特に夢や目的がなかったとしても、どのみち「仕事行かなくちゃ」「練習しなくちゃ」「ブログ書かなくちゃ」みたいな義務感(あるいは衝動?)みたいな「何か」って、絶えず僕らを動かしているんじゃないだろうか。その「何か」に駆られて僕らは明日も動き出し、一日を始める。程度の違いはあれど、その繰り返しである。

 特にこの一年は、「自分は本当は何がしたいのか」「フォロワーの写真はうまい。友達はバンドでライブをしている。僕はいったい何者であるのか」みたいな思考に苛まれ、決して良いとはいえない踏み出し方だってした。だが、それなら尚のこと「やり直せばいい」というか、立て直すしかない。それに、やりたいことと訊かれて浮かぶのは仕事の将来像なんかではなく、数分先の「飯」「風呂」「寝る」である。それがひとつのゴールであるのたら、こうして時間を潰しているのだって戦いだ。

 

 仮に僕の想像する”何者か”の自己紹介がある程度できるようになっても、やっぱり悩みは尽きない気がする。故に、やっぱり戦いは続いていく。二作品を観て、そういう遠すぎる将来像とか、曖昧な個性について、ぐだぐだ考えるのは最小限にしよう―いや、

「もう調子に乗るのは止めよう……慎ましく生きよう……」

 と思うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:何せ高校の文化祭と大学のサークル活動でしかバンド経験はないので。