むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

省いてつまりシンプルにアレ -2023.1.1

 本年も何卒御贔屓のほどよろしくお願いいたします。

 

 ……という旨のメッセージを、せっせと送るところから新年は始まる。あるいは「前(全)略」からの宣戦布告かもしれない。語源のとおり、まるで弓矢を乱舞させるかのような文章も、相手によってはご挨拶として通じる。

 まあ、仮に「あけましておめでとう」の伝達が手紙からメールやメッセージアプリに切り替わったとて、切りたくない繋がりはそうして保っておかねばならない。故に親愛なるフォロワー・読者の皆様に宛てて、こうして元日のうちに文章をしたためている次第である。どうか見捨てないでください。いや、見捨てられない努力を本来するべきである!

 

 さて、実際のところ元日なんぞ特にすることもない。

 毎年そう言って、冗長なバラエティを観るか、横になってお菓子を貪るかして、無為に過ぎていくだけのことである。かつては昼過ぎから白山へ詣で、夕方には徒歩15分の祖父母宅に挨拶に行くのが恒例であったが、その行事もなくなった。正月なんぞ結局、めでたいめでたい、などと言いながらゴロゴロ、ダラダラと過ごしてしまうものであり、その顛末として身体も心もどんどん重くなっていく。そういうことをかつて詠んだことがある。

 

 だが、正月が暇なのは「してはいけないこと」も多いからである。姉曰く、正月にしてはいけないことは3つあるという。

 一つ目は洗濯。こんなおめでたい日にいきなり汚れることはないではないか、という決めつけだろうか。それはどうかな。前の晩の酒呑みの席に着たものが、何やら香りを放っていたり、見慣れない模様がついていたりしないのだろうか。ちなみに僕は軽音部時代に部活で作った黒パーカーで年を越したが、芳醇な香りがしたのでとりあえずめちゃくちゃファブリーズをしておいたし、普通に洗濯機も回した。

 二つ目は掃除。由来は上記と同様だろう。しかし、やはり食べカスが飛散しそうなこの折に、放置せよというのも「一年の計」がある日には相応しくない気がする。どのみち、これから風呂を洗わなくてはならないし、我々はその風呂で「命の洗濯」を行わねばならない。

 三つ目は喧嘩。これはまあ、わかる。だが行事というのはトラブルの種であり、イライラの温床ではないだろうか。ならば極力それを軽減する努力をお前も含めてするべきではないか?というのは、実にごもっともな指摘である。

 

 まあこれらの迷信は、身も心穏やかに安らぐべきである、ということの方便だろう。三つはどのみち今年一年も避けては通れまいし、良い一年になると言っても波はあるものだ。

 早速、昼でももう夕暮れかと錯覚するような黒い雲が、窓の外には広がっている。遠くの山の向こう側は、きっと晴れているのだろう。実際にテレビの駅伝中継や、インスタに友人が上げる初日の出や初詣の写真はやはり 「快晴」を映しているものが多い。

 

 元日である以前に、今日は越後の長い冬の、ほんの一日に過ぎないのだった。いや、どうかな。なら晴れさえすれば僕は勤勉に過ごすのだろうか。怪しい。

 結局天候関係なく起きたのは11時だったし、なんならそれは、ドン、ドン!とまるで扉を破壊しかねない轟音のノックで「おぉい、乾杯の時間だぞ」と起こされたものであった。起きて早々の飲酒、食卓を埋め尽くす器。引きこもりと怠惰の宣言である。

 

 ところで今年のおせち料理は幾分、僕の食べられる品が多い盛り合わせとなった。蒲鉾や昆布巻を減らし、洋のテイストが半分くらいを占めたのだ。少し願いが届いた形になったかもしれない。

 カレンダーは特に写真も装飾もない、予定を書き入れられるタイプのシンプルなものになった。前年が鉄道写真やらコウペンちゃんやら好きなもの全面なタイプだったので寂しさはあるが、機能としては幾分使いやすい。

 初詣は今年も行かない。……今年神社に一度でも行く機会があればそれが初詣となるのだが、それなら2月だろうと7月だろうとはたまた12月だろうと同じことだ。少なくとも元日に行くことはもうないだろう。

 

ゴロゴロするだけで幸せ

 随分と怠惰に過ごしたが、無駄や嫌いなものを省略・簡素化した、とも言えなくはない。シンプル!省く!……どれも良い響きだ。

 それが一年の計―シンプルに、単純に、アレがああなってあれだからつまりAREなのだ。故に、最終的に、シンプルにアレな2023年になることを祈っている。