むしょくとうめいのらくがき

鉄道と酒と野球ではしゃぐ4歳魚と26歳児の気ままな放浪記とか落書き 

処暑、灯らない提燈

 色々と都合が良いので、ここでは「夏バテ」という単語で表しておく。

 

 8月に入ってからの話である。身体は忙しそうにしていて、心は慌ててるんだか呑気なんだかよくわからなくて、違う場所での違う景色・音・温度を体感しているようで、大して変わらない日がもう十五日以上も過ぎてしまった。ある現場で言われた「派遣のプロ」だなんて一言が、酔った頭の中で存在感を放っている。

 確かに振り返ってみたら、今月は4つ目の現場に就くことになるのか。きっとやはり何かがアレだからアレなんだろう、と思うが定かなことは知らない。高校の先生に問われても代名詞の中身は知らない。アレはアレで、それはそれ、これはこれなのである。

 どれなんだよ。

 

 合間を縫ってゆるキャン△の映画を観に行った。

yurucamp.jp

 あの日観た平和で穏やかで「さりげなく幸せ」な世界が、何年か経った後でも創られようとしていた。例えばアウトドアと称して校庭で焚火をやったりしていた高校生が、大人になって居酒屋でぐい呑みしたり、休日にツーリングやサイクリング、ドライブをして楽しんでいる。……そんな感じだと思った。

 だが、さりげない小さな一歩が、壮大な計画に発展するという流れもあの世界にはあった。一人から二人(逆に大勢から一人)、二人から三人、三人から大勢。日帰り、一泊、二泊。隣町、県内のはずれ、県外。はじまりは小さな一歩であった。「灯りを付けて隣で眠ろう」―それが次第に大きな「やりたいこと」に発展していった。振り返ってみればそういうアニメだったのだ。逆に、移動の道中に風景、キャンプ飯、温泉、愛犬……という小さな幸せをかみしめることも、やはりあの物語の本質に違いなかった。

 いずれにせよ、映画を見て、且つ久しぶりに『ゆるキャン△』=野クルの世界を見た感想としては、こんなに刺さるものだったっけ、という感じである。タイムリーである。

「いつか見た未来はこんなんだっけ?」

 たぶん「それはそれで」という回答もあり得たと思う。それは野クルだって別に、大勢の遠方大規模キャンプがゴールだったわけではないからだ。仮に目標を失ったとて、また「できるところ」「できそうなところ」から始めていくだけのことである。

 なのに僕にはEDテーマ「ミモザ」の歌詞がひっかかっている。言うまでもない。これはこれで、でもなければ、違うやろもっとおれはこう、でもない、延々と「どうなんだっけ」と繰り返しているだけなのである。

 

 肘が痛い。一球も投げていないのに痛めている。これまた筋肉痛とも打撲とも、擦り傷ともしもやけ(?)とも取れるような赤黒い汚れが異彩を放っていて、とにもかくにもここが痛いのです、とアピールしているのだ。だが少なくともシップは貼れない。直球、変化球どちらも今年一球も投げていないのに、利き腕の肘は痛みを放っている。

 口内炎も何故か酷い。まあこれは、食べているからである。だが、一か所消えたと思ったらすぐ別な場所に転移するのはいただけない。それにしたって、こういう痛みや荒れは身体からのサインだとよく言うけれど、殊に口内炎だと言うから何か、ショックだ。何故口内炎?絶え間なくどこかに発生しているそれの原因を考察するが、余計にショックである。こう……「だからって出てくんなよ」みたいな意味で、だ。

 それでも忙しそうにあれこれ動いていたら少しはやる気も灯るだろう、と思っていたが、そんなことはなかった。就いたすべての現場で足を引っ張っている。何とかのプロ、という呼称はやっぱり最も適格な皮肉であったのだ。どこに就いても同じことだから、開いたところに仕方なく入れる。「どこでも守れるとは言っていないユーティリティー」みたいなイメージを、我ながらそのまま体現している。でもどうしても、皆と同じように、スピーディーに、効率よく正確に事をこなす、それが僕には無理なのである。

 また違う現場に行った。暑かったし熱かった。時給一時間分くらいの飲み物代が消えている気がする。楽しい部分もあった。おまけも色々もらった。でも、それとこれとは別なのだ。普通に生きる、と簡単に言われても、それは途方もなく難しい。

 

 8月に入った。そして十五日が過ぎた。なのに一向に、何も始まっていない気がする。始まっていないのに何でこんなに疲労しているのか。体力がないのか。ひぐらしの声も祭囃子も聞こえず、灯る提燈や花火も見えない。フォルダを見返しても写真が無い。遂に何も撮らず、どこへも行かない夏が終わろうとしているのか。

 提燈で思い出した。ふと相棒を見ると、頭の白い提燈がぐったりと垂れて、大きな右の目を隠している。

「提燈が萎れてきた」と指摘が……

 まるで枯れて萎れるような垂れ具合。幸い食欲はあるようだが、それも満たしてあげられていない。どこにも行かないし、お酒を与えたり電車に乗せられもできていないなあ……と気づく。それが全て他ならぬ僕自身の欲しいものであり、あるうちに気付きたかった幸せなのだ。

 そう思うと草が生えてきた。もっと健全で面白い草の生やし方をしたいものだが、面白い経験によって思い出を手入れされたなら草は生えない。そういうものには心からの笑い、泣き、熱量があるはずなのだが、残念ながらここには「虚無」しかない。そんな過ごし方をして、年が明けてしまったら本格的に草。草は生えるよどこまでも。草。

 

 何なんだこの話?

 マスコロがもはや「突っ込む気にもならん」という顔をしている。提燈はやっぱり萎れている。せめて酒でも与えなければと思うので、今週は筆をおくことにする。