今週のお題「サボりたいこと」
0.まえがき
サボる。 ……甘美な響きだ。
できるならそれはもう世のありとあらゆることを、と願わずにはいられないお題!だが現在離職中である僕にとって、この「サボり」という素晴らしく甘美な響きをする行為は機会が限られてしまっている。ああ、サボりたい。サボるには仕事に就かねばならぬ。……人間とはつくづく矛盾が多い。
ところで現在無職の身としてはあまりになんというか、かんというか……あれなのだが(?)、どうしてもサボりたいものがあるのだ。
それは食器洗いである。
1.「食器洗い」とかいう、よくわからん修行
僕は食器洗いが嫌いだ。
唐突に申し訳ないが、嫌いなものは嫌いなので仕方がない。手は荒れるし、滑るし、フライパンやボウルの角・縁によって洗剤や水が跳ね返ってくる。うっかり手を滑らせて洗い直しになったり、食器を叩き割ったりすると、何かがポキッ、と折れる音*1がする。
洗剤も手と心によくない。世間では環境保全だゴミ削減だ、と叫ばれているが、使い捨て容器と、大量の排水を流すことのどちらが地球にダメージを与えないだろうか。仮に敗北を喫するとしても、手へのダメージは少ないので僕は紙皿や割り箸を選びたい*2。
学生の一人暮らし時代、謎に張り切ってカレーを作り(しかも炒める用と煮る用で鍋を分けて)、中々取れないルウの汚れに何度後悔したかわからない。3年目の後半になって、皿や箸、スプーンなどは使い捨てられるものを備えたり、カップ麺や惣菜パン(もしくは人からもらうもの)中心の生活になってからは、素晴らしいほどに便利になった。
だが、「嫌い」と言ってもやらないわけにはいかなくなった。実家に戻ったとき、自然とそういうルールになり、僕もそれを受け入れるのには抵抗がなかった。
それでも、いざやってみると次から次へと問題は発覚する。
Ⅰ.流し台のキャパはいつも限界
一人暮らしのアパートから実家に戻り、4人家族のうちの1人になった。これまで1人分で済んだものが、4倍になる。4倍増!どこの店の大食いキャンペーンだというのか。
純粋な量だけでなく、その質にも問題がある。
うちの家族はどうも、食に妥協がない。
以前人に「シラユキさんの家族って、ごはん、味噌汁、主菜、副菜と、食卓ちゃんとしてそうですね!」なんて言われたのだが、その通り過ぎる。あまりに的確なので「頼むからもう少し手抜きして欲しいんですけどね」と付け加えるのがやっとだった。
品数は「肉・野菜バランスよく」より心の平安を
とにかく母の料理はその品数が多い。
品数が多いから、つまり皿も多い。いつも長い時間と労力をかけて、ご飯・焼鮭・椎茸と筍と高野豆腐となんかの煮物・筍の味噌汁・金平?を用意してくれる”真心”に、本当にありがとう。……もう3品くらい少ないと嬉しいな。
それとなく懇願しているつもりなのだが、これが子の心親知らず。いっこうに伝わらない。
「○○のソース炒め」系が出ると、フライパンを想像して絶望する
週末は父の料理も品数が多い。ご飯・餃子・何かのソース炒め・中華スープの超豪華定食が定番だ。おお、美味しいものをありがとう。……ところで何かを炒めたということはつまりソースでフライパンがギトギトになっていて、皿も同様、ということを指す。
イコール、絶望。
これがいつもビールにとても合って美味いので、ソースにはまあ目を瞑るほかにない……が、食べ終わって荒れ果てたキッチンを見れば、現実に叩き落される。加えて、週末は鍋・フライパンなどの大きいものが複数使われる傾向にある。調理の段階でよくキッチンに収まったな、と思わずにはいられないが、少なくとも水切り網には入りきらない。
先述したように、フライパンや鍋はそもそもが大きくて洗いづらいので、3つも4つも使われてはたまったものではないのである。
「お茶が入ったよ」とかいう死刑宣告
我が家の夕食は長い。品数が多いうえに会話(というか相槌)の強要とくる。19時に呼ばれて降りていって、仕事から解放されて部屋に戻るのが20時半過ぎ、ということは珍しくない。時間の浪費も甚だしいところだ。
その一助になっているのが、食後のお茶だ。
何故か夕食後は父が急須でお茶を淹れてくれる。もしくは我が家に出来たルールなのかもしれないが、いずれにしても片付け担当としてはこれが難関になっている。ご丁寧に家族全員分、つまり僕の分まで用意してくださるので、非常に有難いというわけだ。何度か「拒否」を試みた*3が、そのたびに、
「体にいいんだから飲みなさい」
と窘められている。違う。そうではない*4。
湯呑茶碗もそうなのだが、最大の問題は急須。その構造上、洗うことも乾かすことも容易ではない。茶葉を捨て、網・蓋・本体を別にして伏せて、自然乾燥するまで待つほかにあるまい。これが精神には堪える。
おもむろに湯呑を取り出して、ポットで湯を沸かし始める。この隙に僕は片づけを少しでも進めておくのだが、父の作業は早い。片づけが4分の1も終わらないうちに、
「お茶が入ったよ」
主文!被告人を~に処する!みたいなノリなのか?(申し訳ないが)あまり威厳がなさそうなフォルムの裁判長は、しかし被告人に絶望を与えてくれる。
Ⅱ.洗い物係の、狭すぎる主戦場
ところが最悪の量刑は「作業を邪魔される」である。
僕は別に一人で黙々と作業をすることが好きなわけではないし、今文字を打っている横で誰かに話しかけられても嫌ではない。あまり集中しているわけでもないから、話したい時は手を止めるだけ。逆に没頭しているなら、話には適当に相槌を打ちながらカタカタやればいいことだ。
だが、これがキーボードを塞ぐ、手足を押さえつけられる、等物理的手段だと話は変わってくる。機械の唐突なフリーズもそうだし、よくあるのが”ゾーン”に入り始めたときや、何か閃いた時の合図であるかのように、鼻水が溢れたり便意を催したりすることだ。僕の身体は本能的に、集中することを拒否しているのだと思えてならない。
基本的に「任せて放置」してもらったほうがいい
食器洗いの場面ではどうか。
ブログや短編、書き出しの決まらないレポートなどのような文章作成時とは違い、食器洗いは少しでも楽且つ速やかに終わらせたいので、ある程度の集中をしている自負がある。数が多すぎていっこうに終わらないのだから、あれこれ考えず洗っていって、乾かし、収納していくしかない。途中で食器は追加されるのも致し方ない。
一つずつこなしていかねば終わらない、という中で、絶望することは何か。
「ちょっとごめんね~」
そう言って、仏壇のご飯茶碗?の水洗いの為に、父に15秒ほど水道を占拠されることである。
別に洗っているものがどうとか、15秒、という数字に文句をつける気はない。だが父のやっている行為は割込みそのものだ。それに、仮にこの後に再び使うものだとしても、これも濯いでくれ、みたいに言って、任せてもらえたほうがよっぽどいい。
父は時々「手伝っている風」に、収納やらなんやらやってくれているが、はっきり言って邪魔なことこの上ない。痛い脚のストレッチでもしておくほうが余程効率的ではないだろうか。
食器洗いを含めた後片付けは、僕の一日における数少ない集中のタイミング。たかがマイコップ一つを水でゆすぐためだけに、邪魔されてはたまらないのである。
2.食事で疲弊するのはやめよう
Ⅰ.みんな丼に乗せてしまおう
とにかく油とかソースでギトギトのフライパンや鍋、まな板、包丁やなんかつまむやつ(?)、これまたギトギトな皿・茶碗の山で溢れかえる光景に、僕は毎回こう思うわけだ。
「みんな丼に乗せちゃえばいいじゃん?」
たまにレトルトパウチ入りの牛丼の具を使うことがある。実家でも何回かあったが、あれが出てくるときはもう完全勝利の舞。待ってました!ウホホーイ!ってなもんである。
よくスーパーやドラッグストアに1箱100~110円とかで売っている牛丼や親子丼*5の具は、どこのメーカーでも基本美味しいが、それ以上に時間がかからない。具を温めて、別に用意した白米の上に乗せるだけ。そして安い。安くて旨くて、楽!こんないいことはない。白米を炊くのが嫌なら、それも買ってくればいいだけのことだ。
Ⅱ.無駄な労力を一秒でも短く、笑顔と余裕を一秒でも多く
そもそも僕は学生時代、同級生が何故「自炊」に躍起になるのか、あまり理解できずにいた。
ここで同級生が言う「自炊」は手料理のことである。外食と対比すれば確かに安上がり……のようだが、それも検証の余地はあると思う。何より、ひたすら白米だけ食べてもいいし、具材を買い込むくらいならカップ麺のほうが安い。ただ、周りには所謂「食トレ」をやっていたり、何より料理自体が好きな子が多かった印象だった。そういう子には僕もよく、家事手伝いと引き換えにお世話になったりしていた。
成毛眞さんの『一秒で捨てろ!』*6という本に「手作り料理信仰を捨てよ」という一節がある。
日本では、妻であれ夫であれ、料理に対して異様に時間と労力をかけている。
(中略)
コンビニ飯でも何でもいいから、家族揃ってゆっくりテレビでも見ながら、気楽にニコニコしながら食べたほうが、子供だって親に気を遣うことがないし、楽しく食べられるのではないだろうか。
信仰、とバッサリ言い捨ててしまうところが好きだし、とても共感する。子供のいる家庭では特に「食育」のためにも出来合いのものは与えられないのだろうが、それが共働き家庭の疲弊の理由の一つになっている、という指摘である。だが成毛さんによれば、労力をすり減らして「食育」に捧げたところで、子供の味覚に影響があるかどうかは疑問だ、という。僕もそういう意味ではちゃんとしすぎた食育を受けてきたような気がするが、何を口酸っぱく食の教育をされようと、おでんの具とおせち料理のほとんどは食べられなかった。
振り返れば、苦手なものはどうあがいても喉を通らなくて、給食で怒られ、家でも怒られてきたものだ。栄養の説明にも多くの時間を割いていただいたところ申し訳ないが、心の栄養に必要な「食卓の笑顔」はなかった、と記憶している。
時が過ぎて、名実ともに「KODOMOBEYA OJISAN」と化した今こんなことを言うのも随分情けないが、今からでも食事で疲弊するのはやめよう、と、両親にはアピールし続けていく次第である。
Ⅲ.縛りをなくそう
食器洗いの話に戻すと、やっぱりあの家事は嫌いだし、根本を見直せばどんどん意義を感じられなくなる。「感謝の気持ちが足りん」「我儘ではないか?」とお叱りを受けそうだが、両親のご飯が美味しいことと、暮らしの最適化は別の問題なはずだ。
今は食洗器なども普及していてとてもいい。もっともあれに関しては場所を取りそうだから、今後一人暮らしをすることがあっても多分買わないが、「食器洗い」という文化やそれにまつわる価値観を大幅にアップデートしてくれることは間違いないだろう。
夕食「各自」は最高の文化である
それでも我が家は月に数回「夕食各自」デーが設けられる。単に母が時間の都合で夕飯を作れないから、という理由だ。素晴らしい制度過ぎる。唯一、不定期且つ月単位でしか設けられていないが、週2で設定されればかなり楽になる。何なら仕事が休みの日だって、「なんかめんどくさいから今日は作らない」とさえ言ってくれたら良いのである。ちなみに僕が「食事を用意しろ」と言われたら、全員カップ麺で済ませるつもりだ。何の問題があるというのだろうか。
僕の方から進んで「各自」を願い出ることもある。言うまでもないが、好きなものを食べることと、洗い物をサボって手の保護をするためだ。
さあ、次の各自デーは何時に何を食べようかな。「牛丼」「カップ油そば」「おにぎり数点」のどれかにするつもりで、今からわくわくしている。